聖書によると、なぜ励ましがそれほど重要なのですか?


「しかし、『きょう』と呼ばれる間、日々互いに励まし合いなさい。だれも罪の欺きに陥って、かたくなにならないようにするためです」とヘブル人への手紙3章13節は教えています。第一テサロニケ5章11節には、「ですから、互いに励まし合い、互いを建て上げなさい。ちょうどあなたがたがしているとおりです」とあります。聖書全体を通して、私たちが互いに励まし合うようにという教えや、私たちを励ますためのみことばが記されています。なぜ聖書は励ましを強調しているのでしょうか?主に、励ましは私たちの信仰の歩みに必要だからです。

イエスは弟子たちに、「この世ではあなたがたは苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしが世に勝ったのです」(ヨハネ16章33節後半)と言われました。イエスは弟子たちが直面する苦難について話すことをためらいませんでした。実際、イエスは弟子たちに、世が彼らを憎むだろうと語りました(ヨハネ15章18-21節、マタイ10章22-23節、第二コリント2章15-16節参照)。しかし、イエスの厳しい予告は励ましの言葉で和らげられました。イエスは苦難の予告に続けて、輝かしい励ましの言葉を語られたのです。イエスは世に勝ったと。イエスは私たちが直面するどんな苦難よりも偉大なお方です。

励ましがなければ、困難は無意味に感じられ、進み続ける意志は弱まります。預言者エリヤは失望と闘いました(第一列王記19章3-10節)、そして私たちもそうです。「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊的な力に対するものである」(エペソ6章12節)ということを覚えることが重要です。この真理は、励ましをさらに重要にします。私たちは単に世の不興を被っているのではありません。私たちは霊的な戦いの照準に捉えられているのです。キリストにあって励まされる時、私たちは霊の武具を身に着け、堅く立つ力を得ます(エペソ6章10-18節参照)。

クリスチャンが公然とした迫害や憎しみを経験しない場所でさえ、人生が困難であることは誰もが知っています。失望は珍しい人間の経験ではありません。時には、私たちがしている一見取るに足らないことに意味があると認識することはほとんど不可能に思えることもあります。私たちはあきらめたくなるかもしれません。しかし、私たちを召された方は真実であり、私たちにも真実である力を与えてくださいます(第一コリント1章9節)。

初期の教会にヨセフという名の男性がいましたが、彼は「バルナバ」というあだ名を付けられました。その意味は「励ましの子」です(使徒4章36節)。バルナバは当時の信者たちにとってどれほど祝福であったことでしょう!バルナバの励ましを通して、使徒パウロは最初にエルサレムの教会に受け入れられました(使徒9章27節)。バルナバの励ましを通して、マルコは惨めな失敗の後、再びチャンスを与えられました(使徒13章13節、15章39節)。

励ましは、堕落した世界で聖なる方法で生きることを容易にします。励ましは、イエスが愛されたように愛することを容易にします(ヨハネ13章34-35節参照)。励ましは希望を与えます(ローマ15章4節)。励ましは、訓練と試練の時を乗り越える助けとなります(ヘブル12章5節)。励ましは忍耐と親切を育みます(第一コリント13章4-7節、ガラテヤ5章22-26節参照)。励ましは、神の国の前進のために自分の欲望を犠牲にすることを容易にします。要するに、励ましはクリスチャン生活を容易にするのです。

励ましがなければ、人生はすぐに無意味で重荷に感じられるでしょう。励ましがなければ、私たちは人生の非常に現実的な痛みに圧倒されるかもしれません。励ましがなければ、私たちは愛されていないと感じます。励ましがなければ、私たちは神が嘘つきであるか、私たちの幸福に関心がないと思い始めます。ですから、聖書は私たちに互いに励まし合うように、神が私たちを愛しているという真実、神が私たちを備えてくださっていること、私たちが大切にされていること、私たちの苦闘は価値があることを互いに思い出させるようにと教えています。

聖書からの励ましは、私たちに進み続ける意志を与えます。それは大きな絵の一部を垣間見るものです。それは燃え尽きを防ぐことができます。それは私たちが嘘(「罪の欺き」)を信じることを救うことができます。励ましは私たちが豊かな人生を経験する助けとなります(ヨハネ10章10節参照)。

箴言16章24節には、「親切な言葉は蜂蜜の巣、魂に甘く、骨をいやす」とあります。神の言葉は励ましに満ちています。まさに親切な言葉です。


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