神はご自身の望むことを何でも行うことができますが、神はご自身の聖なる意思に反することや、ご自身の目的に矛盾することを行うことはありません。例えば、神は完全に聖なるお方であるため、罪を犯すことはありません。罪を犯すことは神の性質に反します。
それでも、全能の神にとっては何でも可能ではないかと問う人もいます。一例を挙げましょう。「神は自分で持ち上げられないほど重い石を作ることができるか?」この問いは逆説を含んでいます。もし神が無限の重さの石を作ることができるほど力強いのであれば、その強大な力を持ってして、どうして持ち上げることができないのでしょうか?しかし、その石が無限の重さであるならば、どうして持ち上げることができるのでしょうか?答えは、神はご自身を否定することはない、ということです。この場合もそうです。神はそのような考えすら持たないでしょう。なぜなら、それは神がご自身と対立することを意味し、神の王国の目的において何の価値もない愚かな行為だからです。
聖書を通して、神は全能であり、誰にも、何にも匹敵したり、超越されたりしないお方であることがわかります。ヨシュア記4章24節では、神がヨルダン川に乾いた道を作り、民が安全に渡れるようにされたことが記されており、「これは、地のすべての民が、主の手が強いことを知り、あなたがたの神、主をいつも恐れるためである」と述べられています。同様に、エレミヤ書32章26-27節では、「主の言葉がエレミヤに臨んだ。『わたしはすべての人間の神、主である。わたしにとってできないことがあるだろうか』」とあります。さらに、ヘブライ人への手紙1章3節では、「御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力ある言葉によって万物を保っておられる」と記されています。これらの聖句や他の聖句から、神の意思にかなうすべてのことは神にとって可能であることがわかります。
ルカによる福音書1章36-37節で、天使はマリアにこう言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているのに、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にとって不可能なことは何一つないからです。」「神にとって不可能なことは何一つない」というのであれば、車よりも速く走ったり、高い建物を一飛びで飛び越えたりできるのかと問う人もいます。神はそれらを可能にする力を持っておられますが、聖書には神がそれらを可能にしたいと願っていることを示すものは何もありません。神にとって可能であることが、神にそれを実行する義務を負わせるわけではありません。私たちは聖書を徹底的に熟知し、神の願いと約束を知り、それによって神が私たちの人生で何を可能にしてくださるのかを知る必要があります。
聖書全体を通して天の父の力強い超自然的な業を考えるとき、神は時間の連続体の中で人間の出来事を進めることができ、一見不可能と思われることさえも、すべては神の栄光の目的のために行われることがわかります。