私たちが救われていると同時に救われつつあるとはどういう意味ですか?

  • 0

罪が私たちが救いを必要とする理由です。私たちは罪のさまざまな側面から救われており、それゆえに私たちの救いには過去、現在、そして未来の段階があります。

私たちが救われる(義とされる)とき、私たちは罪の刑罰から救われます。これは過去の出来事です。イエスは過去に十字架で私たちの罪の代価を支払い、人が救いのために彼を信じる時、その人は赦され、神の前に義とされます。これは一度限りの出来事です。義とされた人は救われたのです:

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ人への手紙2:8–9)。

「ですから、信仰によって義とされた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ人への手紙5:1)。

しかし、問題は罪の刑罰だけではありません。クリスチャンは依然として、自分の人生における罪の力と戦っています。彼らは赦されていますが、完全ではありません。地上にいる間、彼らは罪の力から救われつつあります(聖化されています)。パウロはエペソ人への手紙の1章から3章で、信者がどのように罪の刑罰から救われたかを説明しています。その後、彼は彼らに、罪が彼らの行動を支配し続けないように、その現実の中で生きるよう促しています:

「そこで、主にあって囚人である私は、あなたがたに勧めます。召されたあなたがたにふさわしく歩んでください。すべての謙遜と柔和をもって、寛容を示し、愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで御霊の一致を保つように努めなさい」(エペソ人への手紙4:1–3)。

「あなたがたも、自分たちを罪に対しては死んだ者、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者とみなしなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだに罪が支配しないようにして、その欲望に従わないようにしなさい。また、あなたがたのからだの部分を不義のための道具として罪にささげてはいけません。むしろ、死からよみがえった者として、自分自身を神にささげ、あなたがたのからだの部分を義のための道具として神にささげなさい。なぜなら、あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にあるからです。罪はもはやあなたがたを支配しません」(ローマ人への手紙6:11–14)。

「それで、私はこの法則を見出しました。私が善を行いたいと思うとき、悪が私のうちに存在しているのです。私の内なる人においては、私は神の律法を喜んでいますが、私のうちにはもう一つの法則が働いており、私の心の法則と戦い、私を罪の法則の囚人にしています。私はなんと惨めな人間なのでしょう。この死のからだからだれが私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します!」(ローマ人への手紙7:21–25)。

ですから、使徒パウロでさえ、自分の人生において罪と戦っていることを認めています。しかし、クリスチャンが成熟するにつれて、日々の生活において罪に対する勝利が現れます。クリスチャンは、自分たちを支配する罪の力から救われつつあります。

最後に、将来、クリスチャンは罪の存在そのものから救われます(栄化されます)。いつの日か、クリスチャンは新しい体を受け取り、罪の性質は完全に取り除かれます。私たちは、罪がもはや問題にならない新しい天と新しい地、新しい住まいを待ち望んでいます:

「それから私は、新しい天と新しい地を見ました。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もありませんでした。また、聖なる都、新しいエルサレムが、神のもとを出て天から下って来るのを見ました。それは、花婿のために飾られた花嫁のように整えられていました。また、私は御座から出る大きな声がこう言うのを聞きました。『見よ、神の幕屋が人々の間にあって、神が彼らと共に住み、彼らは神の民となる。神ご自身が彼らと共におられて、彼らの神となられる。神は彼らの目からすべての涙をぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない。最初のものは過ぎ去ったからである。』…私は都の中に聖所を見ませんでした。なぜなら、全能の神である主と小羊が都の聖所だからです。都は太陽や月が照らす必要がありません。神の栄光が都を照らし、小羊が都のともしびだからです。諸国の民は都の光の中を歩き、地の王たちは自分の栄華をそこに運び入れます。都の門は決して閉じられることはありません。そこには夜がないからです。人々は諸国の栄光と誉れをそこに運び入れます。しかし、汚れたものや、忌まわしいことや、偽りを行う者は、決して都に入れません。小羊のいのちの書に名が記されている者だけが入るのです」(ヨハネの黙示録21:1–4, 22–27)。

したがって、救いには三つの側面があります:

• 過去:私たちは罪の刑罰から救われました。私たちは義とされました。
• 現在:私たちは罪の力から救われつつあります。私たちは聖化されています。
• 未来:私たちは罪の存在から救われます。私たちは栄化されます。

罪が私たちが救いを必要とす&#x308…

罪が私たちが救いを必要とす&#x308…

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です