正当化と聖化—その違いは何か?
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by admin
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聖書の中で法的・裁判的に用いられる「義認」という用語は、「神の御業によって、それ自体では不義である者が、罪の状態にありながらも神の前に義と宣言されること」と定義されます。義認は、罪の刑罰からの解放であり、すべての信者にとって過去の出来事であり、キリストが十字架で成し遂げられたものです。
パウロは義認の概念を次のように要約しています。「それで、ひとりの罪過によってすべての人に刑罰が及んだように、ひとりの義なる行為によってすべての人に義を与えて命に至らせるようになったのです」(ローマ5:18、新改訳聖書)。
一方、聖化は、神が人を義と宣言する行為ではありません。むしろ、神が実際に人を義とする継続的なプロセスです。聖化は、罪の力からの解放であり、聖霊の力と臨在によって成し遂げられる、信者がキリストに似た者となる現在進行形のプロセスです。聖化は、信者が肉(ローマ7:24–25)、世(1ヨハネ5:4)、そして悪魔(ヤコブ4:7)に勝利することを表します。
私たちの聖化の究極の結果は、キリストの姿に似た者となることであり、パウロがローマ8:29–30で述べている通りです。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、御子のかたちに似たものとしようと、あらかじめ定められたのです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。そして、神はあらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義と認め、義と認めた者たちに栄光をお与えになりました」(新改訳聖書)。
要約すると、義認は、神が罪人を義と宣言するときに起こり、聖化は、神が信じる罪人を義とするときに起こります。義認は一度きりの行為であり、聖化は継続的なプロセスです。義認は罪の刑罰から私たちを解放し、聖化は罪の力から私たちを解放します。義認と聖化の両方が、私たちの「永遠の救い」(ヘブル5:9)の一部です。
聖書の中で法的・裁判的に用̄…
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