天国にいる人々は私たちのために祈ることができますか?

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聖書には、天にいるどんな被造物も地上の人間のために祈ったり、とりなしをしたりするという証拠はありません。これにはマリア、教父たち、使徒たち、聖人たち、天使たちも含まれます。伝統に過剰な重みを置くキリスト教の一部の宗派の信念にもかかわらず、聖書は天にいる人々が地上の私たちのために祈ることができるという証拠を提供していません。

聖書は、イエスが天で私たちのためにとりなしてくださることを教えています。

「それでは、だれが私たちを罪に定めるのでしょうか。キリスト・イエスは、死んで、しかも、よみがえられた方で、神の右に座し、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ人への手紙8:34)。

「それゆえ、彼は、神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。なぜなら、彼はいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(ヘブル人への手紙7:25)。

聖書の中で、天にいる人間の中で私たちのとりなし手と呼ばれているのは、「ひとりの中保であるキリスト・イエス」だけです(テモテへの第一の手紙2:5)。

聖書は、聖霊が私たちのためにとりなしてくださることを教えています。

「同様に、聖霊も私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、聖霊ご自身が、ことばに表せないうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるのです」(ローマ人への手紙8:26)。

聖霊は私たちの祈りを助け、神を喜ばせるものに私たちの心を導いてくださいます。たとえ私たちの深い、聖なる願いがことばで表現できない場合でも。

私たちは直接、父なる神に祈ることができます。

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求める者たちに聖霊を与えてくださるではありませんか」(ルカによる福音書11:13)。

「ですから、私たちは、あえて大胆に恵みの御座に近づき、あわれみを受け、必要に応じて恵みをいただくために、来ようではありませんか」(ヘブル人への手紙4:16)。

キリストの十字架での完成されたわざの前には、神の民は祭司たちによって神の前に代表されていました。しかし、イエスが死なれたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました」(マルコによる福音書15:38)。新約時代のキリストを信じる者たちは、自分たちが祭司であり(ヨハネの黙示録1:6)、私たちの大祭司はイエス・キリストです(ヘブル人への手紙4:14)。神の子として、信者はイエスの名によって直接神に近づくことができます。イエスは信者たちに直接神に祈るように教えられました(マタイによる福音書6:9)。

聖書は、天にいる他の人間を通して神に祈るようにとは一度も教えていません。特に直接神に近づくことができるのに、天にいる人間(または天使)に自分のためにとりなしてほしいと願うことは、ほとんど考えられないことです。

信者は、祈るときに神が聞いてくださることを確信しています。

「そして、私たちが神に対して持っている確信は、次のことです。すなわち、私たちが神のみこころに従って求めるなら、神は私たちの願いを聞いてくださるということです」(ヨハネの第一の手紙5:14)。

たとえ天にいる人々、例えばマリアや聖人たちが地上の人々の声を聞くことができたとしても、彼らの願いが特別な重みを持つという聖書的な証拠はありません。誰も自分の功績によって神に近づくのではなく、キリストの功績によって近づくのです。また、天にいる被造物が、どうして同時に多くの人々からの願いを聞くことができるでしょうか。神だけが全知なのです。

生きている人々は、他の生きている人々のためにとりなすようにと言われています。

私たちは確かに地上のクリスチャンの兄弟姉妹のために祈り、彼らのためにとりなすことができます。そして、そうするように勧められています。「いつでも、霊によって祈り、そのためにあらゆる祈りと願いを用いて、目を覚ましていなさい。すべての聖徒のために、忍耐強く祈り求めなさい」(エペソ人への手紙6:18)。

聖書の中で、地上の生きている人々のために願いをした唯一の死者は、ルカによる福音書16章の金持ちの男で、彼は地上の家族に福音の証人が送られるように願いました。彼は地獄にいる間に兄弟たちのために「とりなし」をし、その願いは拒否されたことに注意してください(ルカによる福音書16:27–31)。

神は私たちを愛し、私たちとの交わりを望んでおられます。

「『さあ、私たちの間で論じよう』と主は言われる。『たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」(イザヤ書1:18)。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入り、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録3:20)。

聖書は、神のもとに来るようにという神の招きで満ちています(マタイによる福音書11:28とヨハネの黙示録22:17参照)。神に祈ることは、神を本当に愛するようになる個人的な関係を築くのに役立ちます。神は私たち一人一人を気にかけておられ(マタイによる福音書10:30参照)、私たちから直接聞きたいと願っておられます。私たちはその特権を、たとえ天にいる人々であっても、他の誰かに委ねるべきではありません。

聖書は死者と交信することを禁じています。

「人々が『占い師(死者と話そうとする者)に相談しなさい』と言うとき、民は彼らの神に相談すべきではないか。生者のために死者に相談するべきだろうか」(イザヤ書8:19、AMP)。

天にいる人々に地上の私たちのために祈ってほしいと願うことは、死者を呼び出す術(ネクロマンシー)とは全く同じではありませんが、それでも死者との交信の一形態です。

聖書は偶像や像に祈ることを警告しています。

「神は霊ですから、礼拝する者も、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネによる福音書4:24)。

私たちは、物質的な物、像、アイコンなどに関わるあらゆる種類の礼拝や祈りを避けるべきです。天にいる人々に対する多くの祈りの願いは、人間の手で作られた像やアイコンに大きく依存しています。神は私たちから直接聞きたいと願っておられ、私たちが人間や人間の手で作られた物を通して、またはそれらに祈ることを望んでおられません。

キリストは私たちに多くの祝福を与えてくださいましたが、その一つは直接神に祈ることができる能力です。「キリストのゆえに、また私たちの信仰のゆえに、私たちは今や大胆に、確信を持って神の御前に出ることができるのです」(エペソ人への手紙3:12、NLT)。キリストと共にいる私たちは、たとえ天にいる人々であっても、私たちのために行く他の誰かを必要としません。

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