霊によって生まれるとはどういう意味ですか?
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by admin
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聖書は、イエスとの救いの関係を持つことの意味を説明するために、誕生に関するいくつかの比喩を用いています。「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)、「神から生まれる」(ヨハネ1:13)、「霊から生まれる」(ヨハネ3:6)といった言葉が見られます。これらはすべて同じことを意味しています。誕生の比喩が使われるのは、私たちが皆、肉体的な誕生を理解しているからです。赤ちゃんが生まれると、新しい人がこの世に現れます。その新しい命は成長し、その若者はやがて両親に似てきます。私たちが霊から生まれるとき、「新しい人」が新しい霊的な命を持って現れます。そして、私たちが成長するにつれて、天の父に似た者となっていくのです(ローマ8:29)。
人々は様々な手段を通して神を知ろうとします。宗教や倫理規範に従おうとする人もいれば、知性や論理に頼る人もいます。自然の中に神を見出そうとする人もいれば、感情的な体験を通して神を見出そうとする人もいます。しかし、これらの方法はどれも、聖書の神と実際に交わることに一歩も近づけるものではありません。なぜなら、神は私たちの道徳規範、心、環境、または感情を通して知られることはないからです。神は霊であり、礼拝する者は「霊とまことによって」礼拝しなければならないのです(ヨハネ4:24)。
ハンマーと釘を使って肖像画を描こうとしたり、ペンと紙を使って食事を作ろうとすることを想像してみてください。一生懸命努力したり、泣き叫んだりしても、それは無駄です。なぜなら、その道具ではどちらの作業も不可能だからです。それと同じことが、肉と霊にも言えます。私たちは、罪深い肉体的な手段を使って、聖なる非物質的な存在と交わることはできません。私たちの霊が神の霊から新しい命を得て再生されない限り、私たちは神と交わる能力を持っていないのです。私たちは霊から生まれなければなりません。
神は、堕落した人間が神の聖なる御前に出るための方法を定められました。それは、私たちが神のもとに来ることができる唯一の道です。イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、命です。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)。イエスが罪のための犠牲としてご自身を捧げ(ヨハネ10:18)、復活されたとき、彼は閉ざされていた扉を開かれました。イエスが十字架で死なれたとき、神殿の幕が真っ二つに裂け、これによって彼が神の御前に出る道を開かれたことが象徴されました。神は天の扉を開かれ、御子の犠牲を信じる者であれば、だれでもその霊において新しく生まれることができるようにされたのです(マルコ15:38)。
私たちが復活したキリストを信じるとき、神聖な取引が行われます(2コリント5:21)。神は、私たちが神に反逆したために受けるべき罪、罪悪感、そして裁きを取り除かれます。神は私たちの罪を東が西から遠く離れているように投げ捨てられます(詩篇103:12)。悔い改めと信仰の瞬間に、聖霊が私たちに新しい命を吹き込み、私たちの体は神の宮となります(1コリント3:16)。私たちの霊は今や神の霊と交わることができ、神は私たちが彼のものであることを保証してくださいます(ローマ8:16)。
私たちの人間の霊は、心の中に無気力にぶら下がっているしぼんだ風船のようなものだと考えることができます。神が私たちの名を呼び、目覚めが始まるまで、私たちはその存在にほとんど気づきません。私たちがイエス・キリストが救いのために成し遂げられたことを信じて悔い改め、神の呼びかけに応えるとき、私たちは霊から生まれます。その瞬間、風船は膨らみます。聖霊が私たちの霊の中に住み、私たちを満たします。そして、聖霊は私たちを変容させる働きを始め、私たちはイエスに似た者となっていくのです(2コリント5:17; ローマ8:29)。
この世界には、霊から生まれた人と、そうでない人の2種類の人しかいません。結局のところ、この2つのカテゴリーだけが重要なのです(ヨハネ3:3)。私たちの地上の人生は、神の呼びかけに応え、霊から生まれるための延長された機会なのです(ヘブル3:15)。
聖書は、イエスとの救いの関係を持つことの意味を説明するために、誕生に関するいくつかの比喩を用いています。「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)、「神から生まれる」(ヨハネ1:13)、「霊から生まれる」(ヨハネ3:6)といった…
聖書は、イエスとの救いの関係を持つことの意味を説明するために、誕生に関するいくつかの比喩を用いています。「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)、「神から生まれる」(ヨハネ1:13)、「霊から生まれる」(ヨハネ3:6)といった…